AI LAB
2026/10/21
東南アジアで2億4,300万人が生成AIを利用、次の競争軸は「回答」から「取引代行」へ


生成AIが日常の道具になった東南アジア
東南アジアでは、生成AIを使う人が2億4,300万人に達しました。これは労働人口の58%に相当し、普及の速度はモバイルインターネットの展開時と比べて4倍とされています。生成AIは一部の技術者が試す特殊なツールではなく、商品選び、旅行計画、移動、金融サービスなど、日々の意思決定を支える道具として広がり始めています。Google、シンガポールの投資会社Temasek、経営コンサルティング会社Bain & Companyがまとめた第11回「e-Conomy SEA」レポートによると、東南アジアのデジタル経済は2026年に前年比17%増加し、GMV(流通取引総額)が3,680億ドルに達する見通しです。現在の軌道が続けば、2035年には1兆ドルを超えると予測されています。ただし、注目すべきなのは市場規模そのものだけではありません。生成AIが検索や回答の補助にとどまらず、購入や予約といった経済活動の流れに組み込まれつつある点です。
レポートは、AIの利用量を測る指標として「トークン」を採用しています。トークンとは、AIが文章などを処理するときに情報を分割した単位です。その消費量は、利用者数だけでは捉えにくいAI処理の量や複雑さを示す目安になります。東南アジアでは2030年にかけてAI利用が60倍へ拡大すると見込まれており、企業にとってはチャット機能の導入件数より、AIがどの業務や取引をどこまで担っているかが重要な評価軸になるでしょう。

ECから金融まで広がるAIの経済効果
生成AIの影響が最も大きく表れているのは、GMVが2,260億ドルに達する電子商取引です。前年比18%で成長する市場では、利用者が画像、文章、音声などを組み合わせたマルチモーダル検索や、アプリ内のAIアシスタントを使って複雑な商品を比較しています。こうした個別化された購入体験によって、コンバージョン率が10%高まり、注文数が最大75%増えるケースも示されています。オンライン旅行市場はGMV590億ドルで、前年比10%の成長です。旅行計画では従来型の検索エンジンが依然として最も使われていますが、複数都市を巡る日程や交通手段を組み合わせるような複雑な旅程では、生成AIがSNSを抜いて2番目に利用される手段になりました。検索結果を一件ずつ確認する行動から、条件を伝えて候補をまとめてもらう行動へ移りつつあることがうかがえます。
オンラインメディアは売上高440億ドルで前年比22%増となり、AIによるコンテンツ推薦や広告の関連性向上によって、質の高いエンゲージメントが10〜20%改善しています。配車・フードデリバリー市場もGMV400億ドル、前年比15%増となり、需要予測、経路最適化、相乗り提案などが取引を支えています。デジタル金融サービスではGTV(総取引額)が1兆6,500億ドルに達し、リアルタイムの不正検知、融資対象の拡大、担当者の助言を補完する個別提案にAIが使われています。業界ごとに用途は異なりますが、共通する価値は、利用者の選択に必要な時間と手間を減らしていることです。

「質問への回答」から「取引の完了」への移行
次の変化として挙げられているのが、AIエージェントによる「エージェンティック・コマース」です。これは、利用者の質問に答えるだけでなく、設定された目的や条件に従って複数の作業を進め、最終的な取引まで支援または代行する仕組みを指します。例えば、希望する価格帯や配送日を伝えると、商品を比較し、条件に合う候補を選び、利用者の許可範囲内で購入手続きまで進めるような体験です。東南アジアでは、価格追跡のような日常的な自動化機能を利用する人がすでに72%に達しています。利用者が「システムに条件を設定し、その後の監視を任せる」という体験に慣れていることが、AIエージェント受容の土台になっています。調査では75%が、AIに価格比較や取引完了を自律的に任せることに前向きだと回答しました。
ただし、従来のチャットボットに商品情報を尋ねることと、AIに決済を伴う操作を任せることの間には大きな隔たりがあります。後者では、誤った候補を選ぶ、利用者の意図を取り違える、予算や社内規定を超えるといったリスクを考慮しなければなりません。企業側には、AIが実行できる操作、承認が必要な段階、失敗時の取り消し方法を明確に設計することが求められます。競争の焦点は、会話の自然さだけではなく、複数の処理を安全かつ確実に完了できるかどうかへ移ると考えられます。

利用者の信頼を支える三つの条件
東南アジアでは、62%の人が1年前よりAIツールへの信頼が高まったと回答しています。信頼が向上した理由には、これまでの利用実績が56%、AIへの慣れが55%、出力精度が53%として挙げられました。実際に使う機会が増え、期待できることと苦手なことを利用者自身が把握し始めたことが、受容の拡大につながっているとみられます。信頼の上昇は、無条件にAIへ権限を渡してよいという意味ではありません。新しいエージェント機能を安心して利用するために、44%が強固なプライバシー保護を求めています。AIにできることとできないことの明示を求める回答は36%、AIが行った取引を取り消せる仕組みを求める回答は30%でした。これらは、機能の高度さだけでなく、利用者が介入できる設計が普及を左右することを示しています。
法人向けサービスでは、権限管理、操作記録、承認フロー、データ保持方針なども同じ文脈で捉える必要があります。AIの判断根拠をすべて技術的に説明することが難しい場合でも、参照した条件、実行した操作、費用、取り消し可能な期限を利用者に示すことは可能です。企業が目指すべきなのは「間違えないAI」と宣伝することではなく、間違いや意図のずれが起きても発見し、停止し、修正できるサービスでしょう。信頼は抽象的なブランド評価ではなく、具体的な制御手段の積み重ねによって形成されます。

60倍の利用拡大を支える計算基盤と採算性
AI利用が2030年にかけて60倍へ増えるという見通しを実現するには、アプリケーションの普及だけでなく、それを動かす計算基盤も拡張しなければなりません。レポートは、今後5年間で東南アジアのデータセンター容量を約3倍に増やす必要があり、その中でAI向け処理が大きな割合を占めるとしています。需要の伸びに設備供給が追いつかなければ、処理コストや応答時間がサービス導入の制約になりかねません。事業者には、モデルを運用する費用と、AIが生む実務上の価値を同時に管理することが求められます。高度なモデルをすべての処理に使えば品質が上がるとは限らず、コストだけが増える場合もあります。質問への回答、文書の分類、候補の比較、取引の実行では必要な性能や安全対策が異なるため、用途ごとに適切なモデルと処理方法を選ぶ設計が欠かせません。中小企業まで持続的に導入できるかどうかは、利用料金だけでなく、既存業務との接続や運用負担を含めた採算で決まるでしょう。
電力効率も避けて通れない条件です。シンガポールでは、デジタルインフラ関連の枠組みを通じてPUE(電力使用効率)の基準を設ける動きが示されています。PUEは、施設全体の電力消費量をIT機器の電力消費量で割った指標で、値が1に近いほど冷却などの付帯設備による消費が少ないことを表します。マレーシアのCRESSと呼ばれる再生可能エネルギー供給制度のように、クリーン電力へのアクセスを広げる仕組みも重要です。AI市場の拡大は、計算能力、価格、電力という三つの制約を同時に調整する取り組みになります。

ASEAN共通ルールが左右する域内サービスの展開
東南アジアは複数の国から成り、言語、法制度、決済手段、データ管理の要件も一様ではありません。一つの国で成立したAIサービスを周辺国へ展開する際には、機能の翻訳だけでなく、データ移転、消費者保護、本人確認、取引の取り消しなどを各国の条件に合わせる必要があります。エージェントが国境を越えて商品やサービスを比較するようになれば、こうした違いは利用者から見えないバックエンドで処理されなければなりません。その基盤として位置づけられているのが、ASEANデジタル経済枠組み協定(DEFA)です。2026年11月に予定されているDEFAは、地域全体を対象とするデジタル貿易協定の枠組みを提供し、東南アジアのデジタル経済を一段と成長させる役割が期待されています。ルールが一定程度共通化されれば、企業は国ごとに重複する対応を減らし、複数市場へサービスを展開しやすくなる可能性があります。
もっとも、共通ルールが整うだけで、AIサービスの安全性が自動的に保証されるわけではありません。企業には、地域共通の基準と各国固有の要件を分けて管理し、AIエージェントがどの地域で何を実行できるかを制御する仕組みが必要です。データの保存場所、越境移転の条件、利用者から得る同意、問題発生時の責任主体などを事前に整理しておかなければ、事業展開の速度が上がるほど運用上の不整合も増えます。DEFAの進展は市場参入の機会であると同時に、地域横断のガバナンスを製品設計へ組み込む契機になるでしょう。

日本企業が事業機会を見極めるための視点
日本企業にとって東南アジアの変化は、生成AI製品をそのまま輸出すれば成長市場へ参入できる、という単純な話ではありません。2億4,300万人がすでに生成AIを利用している市場では、AI機能があること自体よりも、購入、予約、決済、問い合わせといった既存の行動をどれだけ短く確実にできるかが問われます。現地企業との競争や協業を検討する際も、モデルの性能比較だけでなく、業務や取引の完了率を見る必要があります。最初の導入対象には、手順が明確で、失敗した際に人が確認・修正できる業務が適しています。価格や在庫の比較、旅行候補の整理、不正取引の検知補助、配送経路の提案などは、AIの判断を人間の承認につなげやすい領域です。そこから、実行権限を段階的に広げる方法が考えられます。評価指標も、回答回数や利用時間だけでは不十分です。取引完了率、処理時間、承認後の修正率、取り消し件数、利用者からの問い合わせ内容を追うことで、AIが実務に与える効果とリスクを把握しやすくなります。
地域展開では、各国の言語や商習慣に加え、プライバシー保護と取引の可逆性を初期設計に含めるべきです。特にAIエージェントへ決済や予約を任せる場合は、実行前の確認、金額や条件の表示、操作履歴、停止手段をそろえる必要があります。東南アジア市場を検討する企業は、まず一つの業務について「AIが提案する段階」「人が承認する段階」「AIが実行する段階」を図にし、責任の境界を確認するとよいでしょう。その設計が曖昧なままでは、利用量が増えても継続的な信頼にはつながりません。
