2026/11/02
AIニュース
AIエージェント導入の壁は「業務の見える化」 Marble Cognitionが約375万ドルを調達


AIエージェントに足りない「仕事の文脈」
生成AIを使って文章やプログラムを作れるようになっても、企業の日常業務をそのまま任せられるとは限りません。AIエージェントに実務を引き継がせるには、何を、どの順番で、どのシステムを使って処理し、どの時点で人に判断を求めるのかという細かな文脈が必要です。ミュンヘンを拠点とするスタートアップのMarble Cognitionは、この文脈を人が一から説明するのではなく、実際の作業を観察して取得しようとしています。
同社はサービス開始に合わせ、プレシードラウンドで375万ドルを調達しました。投資を主導したのは欧州のベンチャーキャピタルであるHeartcoreとSeedcampです。マッキンゼー、フランスのAI企業Mistral AI、クラウド監視サービスを手がけるDatadogの関係者も、エンジェル投資家として参加しています。
Marbleを共同創業したのは、ドイツのAIエンジニアであるフェリックス・レスナー氏とクリストフ・シュミット氏です。両氏が着目したのは、AIエージェントの機能そのものより、企業がエージェントに渡せる業務情報の不足でした。企業向けAIエージェントは珍しい存在ではなくなり、ソフトウェア開発を中心に利用が広がっています。しかし、現場の仕事がどのように進むのかをエージェントが理解できなければ、自律化できる範囲は限られます。Marbleが狙うのは、AIを追加することではなく、AIが働くための業務地図を作る部分です。

メールと表計算に埋もれる企業の業務
企業の業務は、整然とした手順書どおりに進むとは限りません。担当者はメールの過去ログを参照し、複数の表計算ファイルを照合しながら、経験に基づいて例外を処理します。正式な業務フローが用意されていても、実際には補足的な確認や担当者間の調整が加わり、文書だけでは再現できないことも珍しくないでしょう。
マッキンゼーの調査では、米国における全労働時間の57%は理論上、自動化できる可能性があるとされています。ただし、これは企業がすでに57%を自動化できているという意味ではありません。Marbleによると、業務プロセスの90%超は、整理されていないメール、分散したスプレッドシート、従業員の頭の中などに存在します。自動化の余地が大きくても、その手順を機械が読める形で示せなければ実装には進めません。
ここに、従来の業務分析が抱える負担があります。担当者への聞き取りだけでは無意識に行っている操作が抜けやすく、例外処理まで含めた手順書の作成には時間がかかります。完成した時点で業務が変わっている可能性もあります。AIエージェント導入の成否を分けるのは、モデルの性能だけではなく、散在する判断や操作をどこまで正確に構造化できるかです。Marbleは、この準備作業自体をAIで補助することで、自動化へ進むまでの距離を縮めようとしています。

画面操作から「実行可能な業務地図」へ
Marbleが開発したデスクトップアプリケーションは、従業員が複数のツールを使って働く様子を記録します。取得対象には画面のスクリーンショット、クリック、キーボード操作が含まれます。集めた情報は単なる操作履歴として保存されるのではなく、AIエージェントが読み取り、実行できる構造化されたプロセスマップへ変換されます。同社は、この業務地図をコードに近いものとして位置づけています。
この仕組みのポイントは、従業員にすべての手順を文章化してもらうのではなく、仕事が行われる場所で手順を捉えることです。たとえば、ある画面で情報を確認し、別のシステムへ転記した後、特定の条件に該当すると上司へ確認を依頼する、といった一連の流れを観察できます。公開された情報では個別の認識方法まで明らかにされていませんが、目指しているのは操作の羅列ではなく、作業の順序や分岐をAIが扱える形にすることです。
レスナー氏は、企業はAIに実際の仕事を任せたがっているものの、その仕事がどう行われているかを説明できていないと指摘しています。Marbleが「Coworkers」と呼ぶAIエージェントは、熟練した従業員の仕事を観察してから引き継ぐ設計です。ここでは、AIにプロンプトを与えるだけで業務を理解させるのではなく、現場の操作から具体的な実行手順を作るという発想が採られています。属人的なノウハウを可視化できれば、自動化だけでなく、業務の引き継ぎや手順の点検にも応用できると考えられます。

Coworkersが担う実行と人間の判断
業務データを構造化した後は、MarbleのCoworkersが反復的なプロセスを引き継ぎます。専用環境へ業務を丸ごと移すのではなく、企業がすでに利用しているソフトウェア群を横断し、処理を最初から最後まで進める構想です。AIエージェントが個々の画面操作だけでなく、一連の業務として仕事を扱う点に重点が置かれています。
すべてを無人化するわけではありません。重要な判断が必要な場面では人間が関与する、いわゆるヒューマン・イン・ザ・ループの設計が採用されています。定型的な情報収集や入力、条件に沿った文書作成はAIが進め、承認や例外への対応は担当者に戻すという分担です。自動化の対象を広げながら、人間が責任を負うべき判断点を残す考え方といえます。
企業が導入を検討する際は、作業量だけでなく判断の性質を見極める必要があります。同じ手順を繰り返し、入力と出力を確認しやすい業務は候補になりやすいでしょう。反対に、判断基準が曖昧な業務や、例外が頻繁に起きる業務をそのまま任せると、人による確認が増えて効果を得にくくなります。Marbleの提案は、AIエージェントを万能な従業員として扱うものではありません。観察によって手順を明確にし、機械が担当する区間と人が判断する区間を分けることで、既存業務へ組み込もうとするものです。

操作記録に伴うプライバシーと統制
画面、クリック、キーボード操作を記録する仕組みには、当然ながらプライバシーや情報管理への懸念が伴います。画面上には顧客情報や社内文書が表示される可能性があり、従業員側から見れば監視に近い体験になりかねません。業務理解の精度を高めるためのデータ収集と、必要以上に個人の行動を追跡しないための統制を両立できるかが、導入時の焦点になります。
Marbleは、記録したデータを匿名化し、AIモデルへ渡す前に利用企業が内容を確認できると説明しています。モデルによる処理は、顧客のプライベートクラウドまたはオンプレミス環境でも実行可能です。オンプレミスとは、企業が自社で管理する設備内にシステムを置く運用形態を指します。外部環境へデータを持ち出しにくい企業にとって、処理場所を選べることは検討材料になるでしょう。
業務と無関係な利用を識別して収集対象から除外する機能も示されています。従業員が昼休みにFacebookを閲覧した場合、その操作は記録データから外されるという説明です。ただし、データの保存期間、閲覧権限、削除手続き、誤って私的操作を収集した場合の対応など、運用に必要な細部は現時点で明らかにされていません。
そのため、技術的に匿名化できるという説明だけで導入判断を終えるべきではありません。対象業務と取得範囲を事前に限定し、従業員への説明、確認者の指定、記録データの扱いを社内ルールとして定める必要があります。AIエージェントが仕事を学ぶ過程そのものを、情報セキュリティと労務管理の対象として設計する視点が欠かせません。

事例が示す処理時間短縮の条件
Marbleは、フィットネス技術企業のEGYM、投資会社のMutares、エネルギー関連企業のEnamなど、初期導入企業で効率改善を実現したと説明しています。企業名は示されているものの、それぞれがどの業務を自動化し、どの程度の効果を得たのかについては、詳しい数値が公表されていません。具体的に紹介されているのは、プライベートエクイティの投資先である米国金融サービス企業の事例です。
この企業では、Coworkersが和解提案を作成し、人間の担当者が内容を確認するように設定されました。Marbleによると、案件処理時間は90%短縮され、従業員を増やすことなく処理できる請求件数が約50%増えました。AIが最終判断まで担ったのではなく、提案作成を自動化して確認を人に残している点が重要です。反復作業の時間を減らしつつ、影響の大きい判断を担当者が管理できる構成になっています。
ただし、90%という数値だけを他社の導入効果へ当てはめることはできません。対象となった案件の種類、導入前の処理方法、測定期間、例外の比率などは示されていないためです。この事例から読み取れるのは、手順を観察しやすく、AIが作った成果物を人間が確認できる業務では、処理時間を縮められる可能性があるという点でしょう。
Seedcampのゼネラルパートナーであるレシュマ・ソホニ氏は、業務自動化ソフトウェア企業UiPathの初期支援者でもあります。同氏は、仕事の進め方を明らかにして自動化可能な形へ落とし込むことが、長く企業の課題だったと述べています。Marbleは、その空白を業務文脈の取得によって埋めようとしているのです。

日本企業が検証すべき導入の出発点
Marbleの構想を企業で試すなら、全社の業務を一度に観察するより、範囲の明確なプロセスから始めるのが現実的です。候補になりやすいのは、同じ操作を繰り返し、処理結果を担当者が確認できる業務です。作業時間が長いという理由だけで選ぶのではなく、開始条件、終了条件、例外、承認者を説明できるかどうかも確認する必要があります。
試験導入では、観察対象を決める段階から現場の担当者を参加させることが望まれます。管理部門だけで業務を定義すると、日常的な例外処理や暗黙の確認作業を見落とすおそれがあります。記録されたプロセスマップを担当者が確認し、実際の仕事と異なる部分を修正したうえで、自動実行の範囲を決める流れが考えられます。人間へ処理を戻す条件も、稼働前に明文化しておくべきでしょう。
評価指標は、削減できた時間だけでは不十分です。誤処理の件数、人による修正の頻度、例外時に業務を復旧できるまでの時間、従業員が記録範囲を理解できているかも確認対象になります。短時間で処理できても、確認負荷が別の部署へ移っただけなら、業務全体の改善にはつながりません。
Marbleが提示したのは、AIエージェントを購入すれば直ちに仕事が自動化されるという構図ではなく、実務を観察して機械が理解できる形へ変換するという準備工程です。導入を検討する企業は、特定の製品選定より先に、自社のどの業務なら観察、構造化、人による確認という流れを安全に試せるかを一つ選ぶとよいでしょう。その小さな検証が、AIに任せられる仕事と任せるべきでない判断を見分ける出発点になります。
